2020(令和2)年 放送されたNHKの「麒麟がくる」の主人公の明智光秀の正室は、土岐市妻木町に有る妻木城の城主だった妻木氏の一族の女(後に熈子(ひろこ)と呼ばれるようになった)であると言われています。  そこで、冊子「郷土の歴史シリーズ」から明智熈子に関する記述を抜粋しました。
※『郷土の歴史シリーズ』は『泉の自治だより』に連載された『歴史シリーズ』の34回分をまとめた本です。 ただしNo.46は『泉の自治だより』からの転載です。
31.安土桃山の土岐 (平成6年2月掲載)
 昨年11月23日、土岐市郷土史同好会のメンバーで、大津市坂本にある西教寺明智熈子(ひろこ)の句碑の建立除幕式に参加した。  明智光秀の妻 熈子の郷里が我が土岐市妻木町であるということから招待をうけたのである。会員の1人が光秀の郷土 可児市を訪れ、可児の地酒「光秀」を手に入れ持参し、お供えをした。  西教寺は天台真盛宗総本山で、実に立派なお寺である。ここに明智光秀とその一族の墓がある。この墓の前に俳聖 松尾芭蕉が明智熈子を読んだ句、 「 月さびよ 明智が妻の はなしせむ 」の碑が今回建立されたのである。  美濃から油坂を越えて越前にのがれていった光秀が貧窮のため、他の武将たちを集めた連歌の会の宴会が開けない。そこで夫の面目をたてるため、自分の黒髪を売って金を工面した話が後世に伝えられ、約130年後 芭蕉は奥の細道の途中、越前の丸岡 称念寺に寄りこの話を聞き、いたく感激してのちにこの句を友の妻に送ったといわれている。  この妻にして光秀があり、戦国の武将が多くの夫人を連れていたのに、光秀はこの妻に感激して熈子以外は連れなかったといわれる。儒教の盛んな江戸時代には反逆の徒と見られていたが、今日では見直され、妻 熈子は内助の鑑として句碑の建立となったのである。あの有名な細川ガラシャ夫人は光秀の娘であるが、この母にしてこの娘ありと考えられ、細川内閣(先祖)の誕生により大きくピックアップされてきた。  この熈子夫人が妻木城妻木藤右衛門広忠の娘と言われ、広忠は坂本城落城に殉じ、明智氏と共に西教寺に葬られている。まさに土岐市の生んだ賢婦であり、妻木氏が古田織部と共に大きく見直されてきた。  陶祖 加藤景延の美濃焼の開発は勿論であるが、それを中心とした武田氏侵攻による天福寺、定林寺の炎上、織田氏の将 森長可による高山落城、古田織部の貢献、関ヶ原戦後の妻木氏の活躍等、もっと大きく広く安土桃山時代の土岐を見直す時がきたように思われる。 (郷土史同好会  田中鈴夫)
32.明智熈子(ひろこ)(平成7年3月掲載)
 今日も妻木城址は長い歴史を秘めて静かに眠っている。しかし、今やその妻木城がやっと目を覚ます時が来たようだ。妻木氏後裔の妻木良郎氏の遺品寄付の申し出による妻木氏歴史の見直し、大茶人 古田織部の土岐市での「織部の日」を設ける等の再認識、婦徳に輝く明智熈子の紹介等である。  妻木氏は妻木城址顕彰会により紹介され、古田織部は「風炉のままに」 等により土岐市によって大きく取り上げられて来た。私はこの際 俳聖 松尾芭蕉をして強く感動させた明智熈子の生い立ちを考えてみたい。  明智熈子は妻木氏第12代城主 妻木藤右衛門広忠の長女であり、明智光秀の妻である。  それでは妻木藤右衛門とは如何なる人物であろうか。藤右衛門の位牌は今も、妻木氏の菩提寺 崇禅寺にまつられており、また氏神八幡神社の棟札にもその名が記されている。藤右衛門は織田信長の次男信雄に従い、武田勝頼討伐のため、信州高遠城を攻める等歴戦の勇士であった。最後は我が子安忠と共に娘婿 明智光秀に従い、本能寺の変に加わり、山崎の合戦に敗れて天正10年6月18日 大津 西教寺で、69歳を最後として自刃したことが西教寺の過去帳にしるされている。  同時に藤右衛門に従っていた多くのわが郷土の一族郎党が戦死または自刃したものと思われる。その墓は明智一族の碑として坂本城近くの明智氏の菩提寺、天台真盛宗総本山 西教寺にまつられている。  藤右衛門の長女に生まれたのが明智熈子であり、次女瑞木は小里城主(瑞浪市)小里国太郎に嫁いでいる。小里国太郎は瑞木の叔父頼和(藤右衛門の弟で上郷日東氏の祖)と共に織田信長に仕えていたので、本能寺の変では織田信忠に従い、二条城で共に戦死している。悲しくも骨肉相食む結果となってしまったのである。  古田織部は藤右衛門の妹の孫であり、熈子とはすじか従弟に当たっていると伝えられている。  妻木氏と明智氏は美濃の土岐氏の初代といわれる大富城土岐頼貞(妻木八幡神社創建者)より5代目の子孫に当たっている頼秀(明智氏の祖)頼照(妻木氏の祖)兄弟の所でわかれている。そして各々の五代目の子孫が光秀であり、広忠である。かくのごとく明智、妻木両家は、土岐氏の一族として親戚の間柄にあったので、光秀と熈子は許嫁の関係にあった。  妻木川の清流に育った熈子は、天性の美貌にますます磨きをかけていたが、運悪く「ほうそう」(天然痘)にかかってしまった。危うく一命をとりとめたものの、その美しき顔の左頬にあばたが残り、見るも哀れな顔になってしまった。  しかし、光秀(25歳)は婚約を解消せず約束を守り、熈子と結婚した。熈子は光秀のその心にうたれ、ここに熈子が光秀と行を共にした波乱万丈の一生が始まったのである。  (郷土史同好会  田中鈴夫)
※ 織部焼誕生に大きな影響を与えた戦国武将で大茶人でもある古田織部の波乱に満ちた生涯を、土岐の陶工、領主たちとの交流や、織部焼出現のいきさつなどを織り混ぜて、生き生きと描かれている。木耳社 (1990/08)
33.『明智光秀とその妻熈子』の講演会(平成6年9月掲載)
 去る5月18日、土岐市教育委員会主催の生涯学習講演会に「熈子」「濃姫と熈子」の著書である作家の中島道子さんを埼玉県より招き、「今よみがえる明智光秀とその妻 熈子」の演題のもとに、講演が文化プラザ・サンホールで開かれた。花の木大学生に一般市民も混じえて約800名に及ぶ大聴衆で盛会であり、大きな感銘を皆さんに与えたようであった。儒教中心の時代は逆賊として取り扱われてきた光秀の評価が最近は変わってきたし、松尾芭蕉が「 月さびよ 明智が妻の はなしせむ 」とほめたごとく女性の鑑ともいうべき明智熈子が妻木氏の出身であることが解ってきたためであろうか。  この講演会のために大津市から明智一族の菩提寺である執事 前阪良憲氏、福井市東大味の明智神社顕彰会長、隣の可児市の明智城址保存会長等も来て頂き大きく光彩をそえてくださった。  午後は妻木町の崇禅寺及び八幡神社を訪れた。崇禅寺には、明智熈子の父 妻木藤右衛門広忠の位牌があり、八幡神社には同じく妻木藤右衛門の棟札もあって、明智熈子と妻木氏との関連が明確にされて良かった。  併せて、土岐市発行、高橋和島氏著の「風炉のままに」によれば、その中心人物であり、織部焼誕生に大きな影響を与えた戦国の武将で大茶人でもあった古田織部が、熈子とはすじか従姉(妻木藤右衛門の妹の孫)に当たり、古田織部と共に盛んに活躍した小里彦太郎の妻 瑞木は、熈子の妹であることもわかり、身近な人の感を深めた。どうかもう1度「風炉のままに」を読み直して下さい。  先に紹介した定林寺の銘の入った飯田市 開善寺の雲版、高山大明神銘入りの高遠町 遠照寺の鰐口等からも、併せて土岐市の歴史の幅の広さを知ることが出来た。  中島道子さんに指摘されたごとく、こんなに、郷土に歴史上の遺跡、遺物、人物が他都市よりも多く有るにも拘わらず、余りにも市民が無関心ではなかったのか。  今後はこのように誇り得る歴史が、そして土岐市民に、施設に、設備に、そして行事を通して定着するよう みんなで真剣に考えていきたいものである。 (郷土史同好会  田中鈴夫)
34.明智光秀公顕彰会に参加して(平成8年9月掲載)
 6月15日、大津市坂本の西教寺(明智氏の菩提寺)で明智光秀公顕彰会があり、出演者及び 金津、曽我両市会議員をはじめ郷土史同好会のメンバー等約40名が出席した。当日は、土岐市詩吟詩舞愛好会により、「明智熈子をたたえる詩吟詩舞」が奉納され、且つ、駄知町のムービーズによる「明智熈子を訪ねて」の映画が発表されるためである。  総会に当たって土岐市会議員の金津保氏により、土岐市長のメッセージがおくられ、終了後、映画及び詩吟詩舞が発表された。西教寺の客殿の畳の間ではあったが、日頃練磨された演技や、遠く北陸から近江にまで足をのばして作られた映画に全員が魅了され、日本各地から集まった明智公顕彰会員約300名に大きな感動を与え、翌日の読売新聞にも報ぜられた。  まさに土岐市オンパレードの日であり、後日の大津市市制百周年記念行事に発表してほしいとの話もあったと聞いている。  この発表により明智熈子が土岐市妻木氏の出身であることが明智公顕彰会で認められ、天下に定着づけられたことは予想外の大きな成果であった。  想えば種々ある明智氏に関する古文書には熈子はいろいろの名で出ており、出身地も諸説がある。今日のような情報機関の発達していなかった当時としては止むを得なかったことであろう。しかしNHK大河ドラマ「秀吉」では「熈子」の名で出演され、今回の明智公顕彰会総会において、明智氏に関係があり、且つ関心のある人々によって妻木氏の出身であることが はっきりと認められたことは共に誠に幸せであった。  郷土史同好会で「明智熈子を訪ねて」の本を作った時は、正直なところ絶対的な自信は無かった。発行した後、大河ドラマには熈子はどんな名で出てくるのか、もし外の名で出たら、本を読んで下さった皆さんに、どうお断りすべきかも考えていたので「熈子」の名の出た時には安堵の胸をなでおろした。  今日、歴史上の幾多の人物が見直されつつある。その最たる1人は明智光秀ではなかろうか。そして、その妻 熈子が脚光を浴びてきたのである。  土岐市の歴史上に1人の偉人が増えた。土岐市民は自信を持って顕彰し、市民の後世の鑑としていくべきだろう。 (郷土史同好会 水野輝夫)
※ 顕彰(けんしょう)とは、個人の著名でない功績や善行などをたたえて広く世間に知らしめること
46.明智熈子漫画本出版 (平成13年3月掲載)
 歴史上の人物の評価功罪が大きくかわって来た。江戸時代、明治、大正、昭和(終戦まで)逆臣として取り扱われて来た明智光秀が見直され、その妻熈子が大きくクローズアップされて来た。  現在岐阜県では子供達の教材用として、又県民の読物として県下の過去の偉人達の生きざまをマンガ本として、全県下の小中学校、高等学校、図書館および一般希望者に配布する。  平成9年度は古田織部(古陶器織部焼の創始者)平成11年度は花子(明治初期の女優で彫刻家ロダンのモデルになった女性)が発行された。平成12年度は「戦国美濃の群像」 のテーマで3月15日に出版される。その内容は織田信長と濃姫、明智光秀と熈子、森蘭丸兄弟と母妙向尼である。  この漫画本製作に当り平成12年8月に企画会議、12月には校正会議が東京都内麹町会館で開催された。岐阜県文化振興課が主催で、可児市、明智町、美山町、兼山町の役場の担当職員が出席され、土岐市だけは市役所の関係者でなく郷土史同好会の代表として私が参加した。外には県下の歴史上の人物の資料提供者として郷土史家丸山幸太郎氏(池田町)横山住雄氏(各務原市)森省三氏(羽島市)及び著作者側として里中満智子先生外3名が出席された。  その席上で明智熈子に関しては平成7年に私たち郷土史同好会が出版した「明智熈子を訪ねて」の冊子がコピーして県の方から会員に配られこれを中心にして協議をすすめられた。これによりほかは市役所、役場関係者ばかりなのに私のみが一般から呼ばれたことがわかった。  想えば平成5年、大津市西教寺における明智熈子をうたった松尾芭蕉の「月さびよ明智が妻の話せん」の句碑の建立に参加したことが契機となり北陸路をたずね、平成7年「明智熈子を訪ねて」を出版した。この小冊子を岐阜県がとりあげてくれて今日の漫画本の出版になったのである。  土岐市に生れ、明智光秀に嫁し、戦国の雄と苦難を共にした熈子の婦徳が教育の資料とされることは土岐市の大きな誇りであり、同時に我々郷土史同好会のささやかな努力が実を結んだことに喜びを感じる。  この郷土の誇りができるだけ多くの市民の方々に読んで頂くことを期待するものである。 (郷土史同好会 水野輝夫)
※ マンガで見る日本まん真ん中おもしろ人物史シリーズ,4 『戦国美濃の群像 : 濃姫・蘭丸・光秀…その生涯』 岐阜県企画 ; 里中満智子構成 ; 影丸穣也, 三浦みつる, 花小路小町作画 岐阜県 2001
 
「ひろこ」の「ひろ」の漢字は、ここでは原本で使用されている「熈」を使用していますが、NHKは「熙」を、ウィキペディアなどでは「煕」が使用されています。これ以外に、表示できない漢字が使われている場合もあります。  拡大すると、熈 熙 煕  熈子の墓の説明看板
 岐阜県土岐市泉町