写真は Googleストリートビューより <説明板> 史 跡
垂井一里塚
昭和5年10月3日指定 徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(4km弱)ごとに、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)、頂きに榎を植栽した塚が、道を挟んで2基ずつ築かれた。 垂井一里塚は、南側の1基だけがほぼ完全にのこっている。 旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれとの2か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。 関ヶ原の戦い浅野幸長陣跡
幸長(よしなが)は、5奉行の1人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中16万石の領主であった。 関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。 戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられた。 平成18年11月 垂井町教育委員会