《 窯の昔と今 》
 この小冊子は、郷土歴史研究家である田中鈴夫先生が、平成13(2001)年2月大富窯クラブ新築を祝し講演され、大好評であったその内容を初版の小冊子に加筆し、まとめられたものです。  平成13年2月 窯クラブ新築記念
1.地名の由来  昔は大富竈と言っていた。何故大富をつけて呼ぶのかわからなかった。  それは昔、久尻竈や定林寺竈が共にあったが、久尻竈は、陶祖加藤筑後守以後次第に衰えた。定林寺竈も竈株を下石村へ売ったりして衰えていった。ひとり大富竈のみが残りそう呼ばれていることがわかった。名誉なことだと思った。因みに3区共に郷と窯があった。郷の名は、定林寺に本郷町が残り、久尻も郷町が残っている。大富にも郷の名があり、昔は平和町の付近を郷畑と言っていたが、今はその名は残っていない。  その窯は登り窯(久尻の陶祖窯のような窯)であり、西窯第二町内会の裏山(旧称とりのこ山)の西及び南の斜面(共に今は団地)に造られており、その一部分は大正の終わり頃まで焼かれていた。又中窯町の裏山でも明治の中頃から加藤氏の先祖等により焼かれており、燃料はすべて薪であった。昭和の初め頃からは平地に移され石炭窯となり、製造と焼成が一体化して行われた。後にガス及び電気焼成にかわり今日に至っている。  次に窯の字は最初(古文書)は竈であったが、大正の頃から昭和の中頃までは釜の字になっていた。戦後は火(へんに)土を使った時もあったが現在は郷土の歴史をあらわす窯の字に落ち着いた。 2.山の名称  大富村が上組・下組・窯組に分かれていたので、山は4分割されていたがそれぞれに所属していた。 西山(下組 大徳原から御林川西北の一帯) 仲山(窯組 伊野川東から美佐野街道まで) 北山(窯組 美佐野街道東より次月(しづき)街道まで) 東山(上組 次月街道より東の一帯)  山は明治当初までは幕府と大富村が所有していたようである。幕府所有地は政府所有地とかわり、国有林と県有林にわかれた。大富村所有地は泉村が出来てもそのままであったので、昭和の初め法改正により、泉町へ相当分をとりあげられた。但し森林組合をつくればよいというので、久尻区は森林組合をつくって免れた。大富区他はそれが難しく泉町へ差し出しそれが町有林になり、現在は市有林になっている。残った大富区有林は土岐市が出来た時に市有林になった。但しこれには入相(いりあい)権があった。  これにより美濃焼卸団地及び愛知電機工場(現TOTO)が出来たとき、入相権のため巨額の収入が大富区へ入り、窯倶楽部建築の助成金にもなった。現在でも区有林であった市有林の管理権は区長に任せられているようである。  このような山の管理の歴史から大徳町が西山であった関係で、現在も窯地区と地続きでありながら窯組に入らない理由がわかるような気がする。  茸山に関しては国有林、県有林、市有林等すべてが区に委任されている。 3.川の変遷  伊野川(昔は井の川)が窯の中心を流れ、他に御林(おはやし)川 窯川 清水(しみず)川と炭焼川が定林寺との境を流れている。  伊野川は北山にある昭和池(昭和初期築堤)、奥池、新池と北畠池(昭和50年代補修)地域の水を集めて、祖母の懐地区を流れて昔は仲森池へそそいでいた。仲森池は四代将軍家綱の時代に、万治元年から3年がかりで岩村藩の命をうけて造られている。旧日神子の裏山が堀割られ、今日の伊野川になった。  仲森池は最初はもっと小さかったが、長年にわたって土砂がたまりそれを すだし して今日に至っている。その出された土砂の遺物が慰霊塔の岡であり、仲道であろう。すだし の最後は昭和の初め頃で、それ以降は土砂の入らぬように工夫されて今日に至っている。造成時の苦労は池の堤の東端に立つ百万遍供養塔、観音像、供養塚にその伝承を残している。  御林川は久尻境の秋葉山の東の谷の昔の御林の水を集めて大徳町と西窯町の境を流れ、御林川の名がついたのであろう。  窯川の水は斧研(よきとぎ)池に、清水川の水は清水池(現在は清水霊苑)に供養碑を残し流れている。炭焼川の水は昔は大富と定林寺の間で取りあいとなり、大富が天領であったので昼をとり、定林寺は岩村藩であったので夜となった。いつも大富にこみやられていたので、定林寺の各所に、小さな池があったのはその遺物であるといわれていた。 4.道の開発  昔の美佐野街道は、現在の白山神社の西側から伊野川にそって上り、昔の上之郷村美佐野や御嵩町に通じていた。それが東洞の斧研池から上る道路にかわり、長い間使用されて今日に至っている。その途中には、大湫という小盆地があり、昔は田を作り稲作をしていた。終戦後の食糧難の時代には、数年間泉中学校生徒が管理して米の収穫をした。その後、人の住んだこともある。  次月街道は東窯から上り、休み松峠を越えて次月へ通じていた。  これ等の道は中山道と脇街道をつなぐ御嵩町の人たちの生活商用道路でもあった。大正から昭和にかけて日曜日になると子供たちが大人と共に早朝に起きて藁を背負って売りに来たことは語り草になっている。  大徳町から上る道路はもっと新しく、盛んに使われるようになったのは明治時代になってからで、御嵩町が東濃の中心となり、東濃中学校や裁判所が出来た頃からではなかろうか。塞の神峠の巡査刺殺事件や、東濃中学校通学の話題を残している。現在は廃道となり、代わりに泉北団地からの道が出来ている。  現在の国道21号線は明治の終頃、定林寺から出ていた県会議員沢田菊次郎氏の努力により出来た。七曲りをしていて「だるま道」とも言った。  東西の道路は新しく現在の国道19号線は区画整理により難なくできた。 5.村の発展  昔は道路の周辺に家が出来ていった。美佐野街道すじに出来たのが西窯町であり、次月街道すじに出来たのが東窯町である。明治の終頃に現在地に泉小学校が出来たので、開発されて中窯町への通り抜ける道路が出来発展して行った。  仲森池の南には定林寺、久尻に通ずる東西道路があり、南に通ずる交差点あたりが中心となり仲森町に発展していった。(仲森町は昔窯組であった)  窯組全体の中心は庚申堂であり郷倉であった。  区画整理後戸数が増え、東窯町の一部を加えて西窯町から中窯町が独立し、西窯町が1と2に分離し、北山町が東窯町より独立していった。 現在戸数(2001年3月) 町 名  登録戸数 加入戸数 未加入戸数 東窯町 265 168 97 中窯町 162 119 43 西窯町1 181 129 52 西窯町2 125 116 9 仲森町 47 45 2 北山町 73 73 0 合 計 853 650 203           (単位 戸) 6.白山神社  「白山神社には昔高田明神が祀られていた」といわれていた。大富は昔高田勅旨田といわれ、土岐氏が守護になってから発展していった。その最初は仲森池西の地に土岐国房が居をかまえたと考えられ、その子孫の頼貞が現在の大富舘跡の地に居をかまえ美濃国守護として勢いをふるった。そしてその守護神として高田明神を白山神社の地に祀ったと考えられる。  その後武田勝頼の臣仁木籐九郎により焼かれ約110年後の貞享3年(五代将軍綱吉の代)に白山神社が創建され今日に至っている。  数年前、白山神社境内の境の厄年の寄付による石柱の囲い作成の時、大鳥居の付近から墓石が発見された。それには庵主と信士の戒名が記され享保5年8月9日とのこされている。隣の大鳥居の完成記念日は11月末日である。察するに当時の大富の戸数は100戸以下の水呑百姓であったであろう。こんな農民から数年かけて、庵主(尼僧)が中心になって寄付を集めて建立したものの、その竣工を目前にして亡くなったのでその死を悼みそれに協力した作男と共に名を刻み建立したものではないかと推察される。  又最近神殿の片隅に十一面観音(顔が11ある観音)が発見された。専門家に鑑定してもらったところ、本体の像がもっとも古く、脚座は次で、向背が最も新しい事がわかった。察するに高田明神が焼かれた時、村人が持ち出して何処かにお祀りしておき、白山神社が出来た時に脚座を造り、その後に向背を造ったものであろう。その向背には山内氏とかかれている。山内氏は幕末の頃の下組の庄屋である。  明治初年このような由緒のある仏像であったので村人は神仏分離の時勿体ないと考え延命寺に移さず、本殿の片隅に隠しておいたのであろう。そして今日に至り発見された。これにより高田明神のあとが白山神社であることが証明された。  かくの如き由緒ある白山神社なるが故か孝助嫁の伝承も伝えられている。  《孝助は母と2人でこの窯に住んでいた。或る日、母の薬を買いに郷へ行き、戻りに花の木の下を通りかかったところ、一匹の白狐が足にとげを刺して困っていた。親切な孝助はそれをとってやりはなしてやった。数日後の夜孝助の家に綺麗な娘がやってきて嫁にしてくれという。孝助は喜んで嫁にしてやり、まもなく子が生まれることになった。その時嫁は「私がよいと言うまで産室に来てはいけない」と言った。待てどお呼びがないので孝助がこっそり見に行くと狐が子を育てていた。嫁は「正体を見られた以上私は人間に戻れない」と言ってお守りの金の棒を置き、18年後、白い花(なんじゃもんじゃ)の下での再会を言い残すと消えていった。》 今も花の木とひとつばたご(なんじゃもんじゃ)は白い花を咲かしている。  この白山神社は昭和5年に改築され、昭和38年神泉殿が新築され今日に至っている。 7.敬神崇仏  神仏習合時代の白山神社には今の神泉殿の場所に玉林山竜泉寺があり、白山神社と交々山伏や尼僧がお護りしていたようである。山伏の子孫はこの地におられる。  明治初年政府の神仏分離令により、仏像は全部延命寺に移された。その代わりに嘉永7年に愛染寺(伏見稲荷)から延命寺に迎えられていた土岐稲荷が白山神社に移された。土岐稲荷が土岐一稲荷といわれるようになったのは昭和の初め新聞による新10名所投票の時からである。  又大徳原にあり道関坊大徳がいたと思われる松林寺(大富と久尻の境の松林寺沢の地名より推測)と共にあった御鍬大神宮の碑が白山神社に移され祀られている。  日神子神社は幕末に上組下組の境から仲森池の西に移され今は境内に祀られている。  庚申堂は江戸時代の中期頃より窯組の信仰の中心であり青面金剛がお祀りしてある。昔は茶番という制度が町内を廻り、毎年8月中旬にお祭りをしていた。  猶、昔は村の入り口に津島神社が祀られ疫病や不幸が村内に入らぬ様、山頂には秋葉神社をお祀りして火災にならぬ様、五穀豊穣を祈ってお愛宕さまをまつり、山の入り口には山神様をまつり、山へ薪をとりに行った時怪我をせぬようにそれぞれ祈っていた。それが区画整理により庚申堂及び東窯町のえんま平に集められて祀られている。  又最近中央道北の雷の宮にお祀りしてあった雷神(八大竜王)が団地造成により団地の北辺に移され守り神として祀られることになった。 8.人口の増加  《大富略記》によれば、幕末から明治の始め頃、窯組50戸余(下組50戸余、上組27戸余)と記されており、明治14年の土岐郡地史にも大体同数がかかれている。それから70年後の昭和の始め頃も58戸といわれていた。何故こんなに発展しなかったのだろうか。  窯組の南には白山神社と泉小学校を含めて全面積が御林といわれ、その中に三輪古墳もあり番人もおかれていた幕府直轄の大森林であり、仲森池もあって、わずかに東西に美佐野街道、次月街道があり、耕地は南の平地にあるといった地理的条件が悪く、資力のあるものでも夫婦が同居し、大家族となり分家は余り認められなかったようである。二男、三男は他所(郡外)に奉公に行き別居をしていった。戸数が増え始めたのは終戦後区画整理が行なわれた以後である。 9.古墳と炭坑  ★古墳  窯の地は高台で南面であるので昔から人の住むのに適していた。ペトログラフ(岩刻模様)が多数あることから考えても他地域より文化が進んでおり古墳が多かった。その最たるものは三輪古墳であった。これはこの地に三輪氏という大豪族がおりその墳墓と考えられる。これに対し久尻に乙塚古墳がある。これは第10代崇神天皇の孫娘の乙姫の墓である。乙姫は北山の久々利宮から山坂をこえて三輪氏に嫁にこられ、没後乙塚と三輪古墳となったのであろう。  三輪古墳は明治の終わり頃、泉小学校建築のため破壊されたが当時は写真技術が低く写真が1枚もないのは誠に残念である。大正の末期頃までその跡に池がありその中に日本地図が作られており大きな岩と築山があった。夜な夜な亡霊がでるとのうわさもされていた。  又昭和6年頃校舎増築のためその裏山が壊された。その頃火の玉があがるとのうわさがあった。多分そこに三輪古墳の陪臣塚があったためであろうといわれた。今はそのあとかたもない。現在当時のあとを何かの形でとどめようといううごきがある。  山麓にあった古墳も多く壊されたが、現在は泉北団地の境にある愛宕山古墳、その東麓の庵ヶ洞古墳、仲山の山中にある中根古墳、そして北山古墳等のみになった。  ★炭坑  大正の頃、斧研池の北、窯川の傍その他に穴が何ヵ所かあり水がたまって薄気味悪かった。それは亜炭を掘った炭坑の穴であった。その付近が終戦後燃料不足のため又掘られた。しかし炭層が薄いとかで、瑞浪市日吉町あたりからどんどん採掘されるようになったので中止された。  ともかく我が郷土の地下には薄いが亜炭層があることが証明された。 10.集会所  大富は昔から天領(幕府直轄の領地)であり、統括する役所は木曽川べりの笠松にあり、代官所といった。そこへ税金(米)を納めなければならぬ。それを集める人が庄屋であり、集める場所が郷倉であった。  郷倉は大富に3ヵ所あった。上組は西上町に、下組は報徳町に、窯組は庚申堂の西に大きな建物があった。庄屋はその郷倉ですべての事をとりしきり、会合等も隣の庚申堂を含めてやって来たようである。そしてそこに窯組のすべての公共機具も置かれていた。  明治、大正、昭和になり、自治もどんどん複雑多様化してきたので、昭和6年白山神社境内の北隅に窯組の倶楽部が建設された。大富区の先端をきった画期的な事業であった。そして郷倉に管理されていた窯組の道具が移された。その中には江戸時代のものもあった。  昭和40年には人口が増え、生活様式もかわり、各種会合が多くなってきたので会議室を作る等、内部を一新して今日に至った。  平成13年1月新庁舎竣工して面目を一新した。 11.広報自治組織  広報の始まりはテレビの時代劇でみる高札であろうか。その高札が大富に2ヵ所あり、1つは大富の辻であり、1つは森口の北隅(中窯町みどりや酒店)の辻にあった。  自治は庄屋、年寄、百姓代、組頭、定使(じょうづか)いの組織によって行なわれていたようである。庄屋は《大富略記》によれば田中氏2名が何度もかかれている。田中両家の世襲交代制によってなされていたようである。年寄は顧問格、百姓代は協議役、組頭は5人組の責任者、定使いはこれを通知してまわる役、当時庄屋と定使いには手当が出ていたようである。  明治以降は庄屋制度が廃止され、窯組長を東西交代でやりその下に5人組制があり自治が行なわれていた。5人組が隣保班の名にかわったのは「トントントカラリン隣組」の歌にあるように戦時中からであろうか。  今日のような自治組織が出来たのは終戦後からで、東西両町が発足し、西窯から中窯が独立して2つにわかれ、仲森と北山も分離して今日に至っている。 12.遺跡・伝承地 旧地名      遺跡・伝承 芝 原(東窯)墓地 炭 焼(東窯)定林寺との水争いの川が流れている 清 水(東窯)池の跡、墓地 三 輪(中窯)古墳(泉小学校) 森 口(中窯)高札所 松林寺沢(大徳)川の源に松林寺あり 鐘鋳原(かねいばら)(大徳)延命寺の釣り鐘を鋳った所 庵 洞(西山)昔尼さんがいたという洞 狐 洞(西山)土岐一稲荷を一時移した所 祖母懐(そぼのふところ)(北山)祖母が良質の陶土を発見し懐に入れて持ち帰った場所 雷の宮(北山)雷神の祀り場所 中 根(仲山)古墳
 編集者 田中鈴夫  発行者 12年度窯組役員      代表 林 省三  発 行 平成13年3月  印 刷 加藤章雄
補足 ①「かま」の漢字は竈から竃になり一般にはその略字が使用されていたようである。 窯組が使用している鉦(かね)には「文政元戊寅年土岐郡大富村竃郷東組」と刻印されている。 文政元戊寅年=1818つちのえとら ②窯クラブ ・・ 岐阜県土岐市泉中窯町にある窯地区の集会所の名称 (=窯組の倶楽部) ③窯地区 ・・・ 泉町の大富区内にあり、西窯町・東窯町・中窯町の3町より構成3町内会をまとめるのが窯組 (現在4町内会)